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はりねずみ通信

兵庫県姫路市にあるかない動物病院。
椎間板ヘルニアの治療であるPLDDや腹腔鏡手術などの低侵襲治療に力を入れています。
人の多面性
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     最近さまざまな出来事があり、人間というものはフクザツである、という認識を新たにしている。

    ある人から見れば、その人はとんでもない悪い人である。いろいろなエピソードを聞くと、非常に偏った人間性を持った人に思える。ところが、実際その人に会ってみると、まったくそんなことはなく、いい人のように感じる。
    そういうケースをいくつも経験したので、「ひょっとしたら、私は単なるお人好しか」とも考えた。人間を見る目がないので、本当のその人の姿が見えないだけなのかも。
    人間は心の底では何を考えているかわからないものだよ、と友人は言う。でも、目をこらしてみても、「底」なるものは見えない。

    人間はある人を理解するため、自分の物差しで測ろうとする。
    でも、それはあくまでもその人の尺度であろう。レッテルを貼ることで、その人を理解しようとすることは、人間の癖といっていいかもしれない。
    たとえば、Aさんってどんな人?と訊かれたら、「友人が多くて、賑やかな人」という返事が返ってきたとする。すると、そういうイメージでその人を規定するようになる。とりあえずわかったような気になり、安心する。
    ところが、Aさんはそんな単純な性格ではないかもしれない。そもそも「友人が多く、賑やかな・・」という2項目で人間が理解できるわけはない。

    もっと突き詰めていくと、確固たる「自己」というものすら、存在するかどうかあやしい。
    ある女性は、ある人から見れば妻であり、他の人から見れば母であり、友人から見れば親友であったりする。見る人の座標軸で、いくつもの人格を有する、と考えることもできる。
    その人から色々な話を聞くうち、思いもしない一面を見ることは、よく経験することだ。「思いもしない」ということは、レッテルを貼っていた、ということである。

    つまりは、人を見るときは、自分の目で見るしかないのだ。
    そういう単純な事実に行き着く。

    過去の業績や、人の噂などは関係なく、いま目の前にいる人から感じ取るものだけで見ればいい。ある程度歳をとっていれば、その人からなんらかの佇まい(たたずまい)が出ているはずである。それを信じればいい。


    ・・それはわかってはいるが、やっぱり人間は複雑すぎる。猫になりたい。



    しょうり







    | エッセイ | 06:23 | comments(10) | trackbacks(0) | - | - |
    仲直りできる?
    0
       私の家は6匹の猫を多頭飼育しているので、日々彼らの行動を観察する機会に恵まれている。
      動物を飼育した人ならわかることであるが、彼らの性格はバラエティーに富んでいる。

      ふてぶてしくて、打たれ強い性格。ちょっとしたことで、傷つきやすい子。ぼーっとしていて、まわりで起こっていることに気がつかないタイプ・・。
      人間にもそれぞれ個性があるように、彼らの性格は多様である。

      では、お互い仲がいいか。
      見ていると、どうしても相性が悪い者同士がいる。一匹がそばに寄ってくると、すーっと離れていく。たぶん気が合わないからで、一緒にいる場面はみたことがない。
      姉と弟、というような関係もあって、追いかけ合って遊んだり、一緒に寝たり。でも、あまりべたべたするとうっとうしくなるようで、急に喧嘩になったりする。

      一番相性が悪いもの同士は、相手の顔を見るのも嫌、という感じだ。
      偶然廊下で鉢合わせしたりすると、露骨に嫌な顔をする。猫の表情筋はヒトほど発達していないはずだが、「あんな嫌な顔、よく作れるな」と感心するほどである。

      でも、おもしろいのは、全体としてある程度の秩序が保たれている、というところだ。
      相手が嫌いなら、近寄らなければいい。すこしだけ距離を保てば、平安に生活できる。そういう野生の知恵を持っているようなのだ。


      いま、古くからの私の友人同士が喧嘩をしている。
      双方の言い分を聞く機会があったが、どうやらお互い意地を張って平行線のようだ。
      私ができることは、話を聞くぐらいのことで、もう手立てはない。あとは当人同士に任せるしかない。
      ただ、相性が悪くたって一緒にいることはできるはずではないか。
      猫を見てそう思うが、「猫と一緒にするな!」と怒られるかも。

      私としては、双方に敬意を払いつつも、自分は争いに巻き込まれたくない、という打算も入っている。これも猫流か。


      あねとおとうと

      | エッセイ | 06:33 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
      セミナー雑感
      0
         海外の獣医医療と日本の獣医医療はどう違うか。
        とても残念であるが、欧米・オセアニア(ニュージーランドとオーストラリア)に比べ、日本は後れをとっている。理由は教育システムであろう。
        きちんとした専門教育を柱にさまざまな先端的な研究がなされ、優れた論文が多数発表されている欧米・オセアニアに比べ、日本はあきらかに見劣りがする。
        だから、海外から講師を呼び、セミナーなどを行って、新しい治療などを吸収することが多い。

        海外の情報では、やはり米国からのものが量も質も圧倒的に多いだろう。
        たとえば最近のトレンドであるステント治療について。
        気管虚脱の治療に用いる気管ステント。腎臓から膀胱へつなぐ尿管ステントなどがその代表である。ベンチャー企業と大学などが協力し、新しい器具などが次々と発表されている。

        私はこれらの治療の利点も、とてもよく理解しているつもりであるが、「治療の切り札」として最初から利用するものではないと思っている。
        なぜならば、ステントは一度体内に入れてしまうと、回収ができないことが多いため、問題が起きたときに後戻りできないからだ。

        体に異物を入れない治療を優先しつつ、どうしても避けられない場合にのみ使用する、という考えで利用すべきであろう。
        そのことは、米国の獣医師もよく理解しているので、適応について、厳密に取り決めがなされている。

        ところが、日本国内では治療の適応基準などが十分検討されないまま、外国の技術を外挿することが多いような気がする。どうも、そのあたりが日本はパワー不足であるように感じるのだが、どうだろう。



        みみ






        | エッセイ | 06:17 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
        動物病院のかたち
        0
           私が20年前に動物病院を開院するときの話である。

          当時勤めていた動物病院で、開院に必要な設備の話をしていた。
          「やっぱり血液検査の機械とレントゲンは必要ですよね」
          私がそう言うと、
          勤務先の大先生(院長先生のお父上で、獣医師)は苦々しい顔でこう言った。
          「わしが動物病院をはじめたときは、注射器一本だった」
          ・・それは絶対無理じゃないか。
          とその時は思った。

          最近、これから開業しようという若い獣医師と話をする機会があった。
          「今勤めている動物病院と比べると、自分で開業すると設備のスペックが明らかに落ちるんですよね」
          もはや血液検査やレントゲンは当たり前、エコーや電気メスなどは必須であるらしい。
          そういえば、当院に勤めていた成田先生が大阪で開院するとき、レントゲンをデジタルにすると聞いて驚いたのだった。
          「そんな立派な設備がなくても、開院できるよ」
          と若い先生に言いかけて、昔のことを思い出す。今の獣医師にしてみれば、注射器1本で始めろと言うに等しいことだ。何も言わないでおこう。

          「では、自分はいったいどこを目指すのか」
          それを若い先生たちは、必死で考えている。ホームドクターに徹するのか、何らかの専門性を持つのか。

          それに対する、私なりの考えであるが、
          「目標や信念を持たず、今目の前の動物に必要だと思われることに集中して、無我夢中でする」のがいいのではないか。
          私は結果として腹腔鏡やPLDDをしているが、よく考えれば何も計画していなかった。
          「こんな治療ができたら!」
          と思って陶酔し、後先考えずにやってきたような気がする。


          と言いつつ、こういうことも古い時代の考えと言われそうなので、黙っておく。(・・そう言いつつ書いているではないか!)



          ぎゅっ







          | エッセイ | 06:24 | comments(9) | trackbacks(0) | - | - |
          目下の目標
          0
             人間はなぜ病院に行くかというと、病気を治すためである。
            でも、治れば満足かというと、そうではない。「自分の思いを完結させたい」というのが本音ではないだろうか。

            「自分の思い」には、いろいろある。
            なぜこの病気になったのか?治るのにどれくらいかかるのか?普段の生活に問題があるのか?食事や環境で気をつけることは・・?
            その人独自の文化の問題もある。
            親も同じ病気だったので、今後が心配だ。仕事の関係で通院の時間がとりにくい・・。

            つまりは、そういった心配や不安を解消し、安心を得るために病院へ行く。病気が治ることより、そちらが大切なこともある。

            けれど、実際に医療機関を利用すると、「完結できない」ことが多いのではないか。
            理由は二つある。
            一つは、専門化が進んでいることである。
            医師から見れば、自分の専門ははっきりしたことを言えるが、専門外のことでは「大丈夫ですよ」と言えない。色々な不安を医師に話しても、はっきりとした答えが返ってこないのは、「間違ったことを言ってはいけない」という医師の側の呪縛がある。大丈夫です、といって大丈夫ではなかったら、責任が問われるのである。
            二つ目は、医療施設が忙しいから。
            心配なことは何でも話してください、と言われても、見るからに忙しそうであればゆっくり話をするのが躊躇される。

            だから、病院へ行ってあれやこれやといろいろ話を聞いてもらい、心配な点を解決して家に帰る、というとてもシンプルな望みを、医療機関は叶えられずにいる。


            この例えは人間の医療の話だが、動物医療でも事情は同じである。
            こんなに簡単なことをなぜ叶えられないのかと、つくづく思うが、大丈夫ですよ、と「はったり」ではなく言えるようになるのは至難の業(・・つまりあらゆる分野に精通する、ということと同義だからである)だし、忙しくないようにするのはもっと難しい。

            それを解決するために、真剣に取り組むのが、今の私の仕事である。



            コタツでほてったからだは、コタツの上で冷やす







            | エッセイ | 06:14 | comments(8) | trackbacks(0) | - | - |
            アマデウス
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               「アマデウス」という映画を久々に観た。モーツアルトとはいったいどんな人か。この映画はおそらく(相当)誇張はあるものの、従来のモーツアルト像をひっくり返すような映画である。

              性格は下品で、社会性はなし。いわば子供がそのまま大人になったような人なのだ。
              けれど、音楽的才能は桁外れである。
              それを宮廷音楽家のサリエリの視点を通して見事に表現している。

              私は学生の時、オーケストラの顧問だった教育学部音楽科の朝田先生の企画で、メンバーと共にこの映画をはじめて観た。今、再び観てみると、映画の脚本がすばらしいことがわかる。
              モーツアルトがいかに天才であるかを、どう表現するか。
              よく映画で「天才的数学者」とか、「類い希な才能のある大泥棒」などが描かれる。そのとき、脚本がうそっぽいと、興ざめする。たとえば、「金庫の鍵を、天才的なひらめきで開けました」と言われても、ちっともワクワクしない。真に迫ったディティールが知りたい、と思ってしまう。

              「アマデウス」では、サリエリが非常に音楽を理解する能力があること、しかも自分の才能がモーツアルトとは雲泥の差であること、そのことにより激しい嫉妬心が生まれ、モーツアルトを崇めつつ、憎しみも持つようになったこと・・・、それにより、モーツアルトの天才ぶりを表現することに成功している。この脚本はすごい。

              モーツアルトの妻が持ってきた、彼のオリジナルのスコアを、サリエリが手に取る。
              オリジナルだから、真っ白な五線譜に作曲者がそのまま書いた最初の譜面のはず。それがただひとつも書き損じや訂正がないことに、サリエリは驚愕する。
              「譜面に書く前に、音楽はすべてモーツアルトの頭の中でできているのだ」
              そして、そこに書かれている音楽が、神が書いたものとしか思えないような美しさなのだ。サリエリが打ちのめされる様子で、モーツアルトの凄みが強調される。

              学生の時に「アマデウス」を観たときより、もっと深い視点でみることができるようになったのかも、と思い、大人になることはいいことだと改めて感じたが、いったいどれくらい時が経ったのか数えてみた。はじめて観たときから、なんと30年経っている。これって、30年前の映画?

              つい数年前にみたような気持ちだった。
              だって、はじめて観たとき、どう感じたかも鮮明に覚えている・・・。

              光陰矢のごとし。そういえば、明日から11月だなあ。


              左は2日前乳び胸で手術した子、右は昨日膀胱結石で手術した子








              | エッセイ | 06:04 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
              覚悟
              0
                 先日、大阪府立大学で行われた獣医三学会で、「発表がうまくいかず、しょんぼり帰ってきた」と書いた。ところが、あの発表が近畿地区の優秀研究褒賞に選ばれたのだった。
                ほんとかな?と思ったが、送られてきた書類を見ると間違いないようである。これに選出されると、全国区で行われる日本獣医師会の年次大会で発表することができる。

                学会発表は、なにかの賞を取るためのものではない。自分の考えをきちんとアピールして、それが受け入れられるか、それによって動物医療に貢献できるか、そう考えて行っている。動物医療が少しでも進むことで、動物や飼い主さんたちに還元したい(かっこよすぎ?)。

                とはいえ、やっぱり認められたことは嬉しいものである。
                ノーベル賞受賞者が賞を辞退することがほとんどないのは、もらって嬉しいからであろう。偉い人でも喜ぶのだから、素直に喜べばいいのかもしれない。

                ただ、手放しで喜べない、という気持ちも大きい。

                もともと、この発表は「特発性乳び胸」を胸腔鏡下で治療するデータをまとめたものだ。
                私はここに至るまで、乳び胸を治してやれなかった犬や猫を何頭も経験している(ぜんぶ正確に覚えている)。この発表の中でも、経過が悪くて亡くなった動物も含まれる。
                いわば、その動物たちのおかげで、この病気の知見が得られたのである。

                ちょうど昨日、柴犬の特発性乳び胸の手術をした。
                この子は、胸腔内の癒着が非常に強く、難しいケースだった。心膜を切除するためには、胸腔内にある程度のスペースが必要だが、手術の最初、その領域を確保するのに難渋した。
                結局うまくいったが、終わったあとカメラ係をやっていた看護師の福嶋と、
                「これは、今までの経験がなかったら、できなかったね」
                と顔を見合わせたのだった。


                ここまできたら、もう進むしかない。
                そうしないと、今までの経験が無になってしまうし、助けられなかった動物の命も無駄になってしまう。究極までこの手術法を洗練させて、「治らない」と言われていた動物たちを治してやりたい。

                そういう覚悟をもってやっていきたい。
                受賞は嬉しいが、乳び胸は一つ間違えば死に至る病気であるし、手術そのものも術後の管理もとても大変なので、自分に与えられた責任は重い。

                「すべて引き受けて進んでいく用意はあるか」
                それを突きつけられているという意味で、手放しで喜んでばかりは居れないのである。





                ふゆのはじまり







                | エッセイ | 05:50 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
                いい反射
                0
                   人間の心は、あがめるように大切に扱うものではなく、取るに足りない現象です。
                  脳研究者の池谷裕二さんは、ある対談で、そう言っていた(「つるとはな(創刊号)」)。

                  脳の研究者からみれば、心とは、神経細胞の集合体である脳の反射に過ぎない。
                  そう言われてみると、あれれ、と思うが、脳以外に心をつくる場所は見つからないし、脳細胞はいくら詳しく見ても、個々の神経細胞が集まっただけのものなのだ。
                  だから、そこから出てくるものは、ヤカンに手が触れると引っ込めるような「反射」であるという。

                  そんなことはない、心とはもっと深遠なもので、科学では解明できない神の領域である、と反論したくなる。でも、心が反射である、と割り切ることで、人間はもっとすっきり暮らせるのではないか。

                  「僕の考えるいい生き方は、いい“反射”ができること。人に気遣いをずっとしてきたとか、相手の気持ちがわかる、まわりから指摘されたら上手に自己修正してきた人というのは、たとえば、どうしたら相手の心が和むのか、困ったときにこうすればいい、とパッと思いつく」
                  そういった反射は、心の癖、と言ってもいい。
                   
                  歳を経て、色々な経験をしてきた人ほど、よい反射が身についている。
                  歳をとるもの悪くない、という話。いろいろ苦労してきたことは、無駄ではなかった、ということだろう。

                  どうです?毎日がたのしくなりそうでしょう!



                  まぶしい

                  | エッセイ | 06:15 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
                  疲れない理由
                  0
                     毎朝、腹腔鏡の結紮・縫合の練習をしている。
                    これを始めたときは、すこし続けるだけで手首や肩、指の関節などが痛くなった。
                    今はそれがほとんどなくなり、何分でも続けられる。

                    慣れない動きに対して体は緊張するので、「慣れ」というものが大きい。
                    繰り返し練習することで、体の力はだんだん抜けていき、リラックスして練習できるようになる。
                    難しい手術では、2時間前後、モニターを見ながら鉗子操作をすることもあるので、力んでいては続けられない。「練習とは、余分な力を抜くことである」と、ある血管外科の医師が言っていたが、まさにその通りである。

                    もう一つの要素は、体のバランスである。
                    体の軸が不安定だと、手元に力が入る。体幹を鍛えることで、手先も安定するようになる。
                    いまは独自のメッソードで体幹を鍛えているが、一番意識しているのは実は「足の裏」だ。

                    結紮・縫合の練習をしているときも、足の裏は親指の付け根、つま先、踵(かかと)、土踏まず・・と体の重心は随時移動している。それによって手先の安定性が高まり、長時間行っても疲れなくなる。

                    このことに気がついたのは最近だ。
                    自分としては大きな発見だったので、誰かに正確に伝えたいが、そういう人は現れるだろうか。

                    昨日の手術は、
                    腹腔鏡下卵巣子宮摘出術と乳腺腫瘍摘出、PLDD(腰6ヵ所)、片側椎弓切除と予防的PLDD。連続して4時間ほど手術室にいたが、疲れもないし、肩こりもない。


                    この理論、10年前に気がついていればなあ!




                    なかよくはない



                    | エッセイ | 06:56 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
                    動物が入院すること
                    0
                       動物を入院させることについて、心配される方がとても多い。
                      「今まで一度も家から離れたことがないので、大丈夫でしょうか?」
                      「置いていかれることで、捨てられたと思ったりしないですか?」
                      と聞かれる。

                      ところが多くの場合、飼い主さんの思惑とは異なり、動物たちはケロッとしていることが多い。
                      もちろん家には帰りたいと思っているだろう。でも、人間の感覚とは違い、「置いていかれた」と恨んだり、抗議の気持ちを持ったりしないようだ。

                      では、動物たちのなかで、入院している期間はいったいどんな感覚なのだろう。
                      人間は欲望の強い動物なので、何かの病気で入院することになった場合、今までできていたことができなくなったり、会いたい人に会えなかったり、食べたいものが食べられないことに強い違和感を感じる。病気になった運命を恨んだり、周囲の環境を嘆いたり、寂しくて悲しんだりする。
                      一方、動物たちは、そういった欲望が比較的少ないようだ。
                      「寂しい」という気持ちは確かにあるが、人間よりはるかに小さい。もしくは、寂しさを恨みに変えない。来し方行く末を案じないことが、彼らの心をシンプルに保っている。

                      動物は家族であるので、つい人間とまったく同じ感情の生き物だと思ってしまうが、彼らの流儀はちょっと違うと感じている。

                      だから久しぶりに家に帰ったあとは、ひとしきり喜びはするが、すぐに平常に戻る。
                      それは、先日の盲導犬フィットの場合もそうであった。
                      つまりは、切り替えが早いのである。


                      彼らのそういうところをまねることができれば、人間もさまざまな環境の変化や人間関係のあれこれを、もっと易々乗り越えられるのではないだろうか。




                      ふわふわ



                      盲導犬フィットちゃんの募金を行っています。
                      詳しくは10/16のはりねずみ通信「募金のお願い」をご覧下さい。期限は10月末日までです。
                      この口座はフィットちゃんの募金のためにのみ作ったものですので、特に送金目的などを記入しなくても大丈夫です。
                      動物病院の窓口で渡していただいてもOKです。
                      趣旨を理解下さり、募金いただけるとうれしいです。




                      | エッセイ | 06:11 | comments(11) | trackbacks(0) | - | - |