2011.09.20 Tuesday
ワイズ
今まで数千例の外科手術をしてきた中で、手術が終わった時点で「治らないかもしれない」と思ったことは数えるほどしかない。
ワイズの手術はその意味で、これからも記憶に残ると思う。
もう高齢の域に達したドーベルマンのワイズは、誤って異物を食べてしまった。
かかりつけの動物病院には内視鏡の設備がなかったため、飼い主のIさんはワイズを当院へ連れてきたのだった。
ワイズと私の関係はPLDD(径皮的レーザー椎間板除圧術)からである。
「胃の中の異物を内視鏡で取ってほしい」
という依頼だったので、私は少し軽く考えていたように思う。
以前PLDDをしたとき、ワイズがクラッシック音楽を聴く、と聞いていたので、
「入院中に何を流しましょうか?」などと気楽に話していた。
マーラーの交響曲5番のアダージョを。
Iさんはそう言った。
携帯の中にちょうどマーラー交響曲全集が入っていたので、第5番のアダージョをかけて、準備の間ワイズに聴かせてやった。少しでも落ち着くかと思ったのだ。
ところが麻酔をかけ、内視鏡で胃の中をみてみると、普通でないことがわかった。
おおかたの綿のような異物を取り除いたあと(これがだいぶ時間がかかった)、幽門部を見てみると、胃の中の異物にヒモ状のものがつながっていて、十二指腸の方向へ流れている。
糸状異物である。
腸がアコーディオンのようにたぐり寄せられるため、とても危険な状態だ。
開腹しなければならない。Iさんに電話して許可を得る。
この時点で夜の12時を過ぎていた。
携帯からは、マーラーの交響曲が続けて流れている。
手術内容の詳しいことは省略する。
壊死した小腸を20センチ取り、胃と腸にあったすべての異物をとり、腹部を洗浄して閉腹が終わったのは午前3時過ぎだった。
ちょうど最後の一針を縫い終わったとき、マーラーの交響曲の9番、3楽章が終わった。
5番のアダージョから9番の3楽章までの時間がかかったわけである。途中は全く耳に入っていなかったが、9番の3楽章が手術に合わせるようにぴったりと終わったことに、少し無震いする。
なぜなら、マーラーは交響曲9番の3楽章まで書いて、完成させることなく亡くなったからである。
やれることは、やった。
そう言い切れるが、糸状の異物に引き寄せられていた小腸全体の血行がとても悪かった。きちんとした血流が戻らないと、縫合した部分が離開することも考えられる。
高齢で体力も心配だ。
「治らないかもしれない」
と思った。
手術後、Iさんは毎日面会に来られた。
数日間は安心できない。
毎日面会に来ても、私が「もう大丈夫ですよ」となかなか言わないので、Iさんは気を揉んでいらしただろう。でも、言えなかった。
そのワイズが、本日退院する。
本当は踊り出したいほど嬉しいが、獣医がそれではいけないので、私はきっと普通の表情で返すだろう。
治って本当によかった。
どこでも