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はりねずみ通信

兵庫県姫路市にあるかない動物病院。
椎間板ヘルニアの治療であるPLDDや腹腔鏡手術などの低侵襲治療に力を入れています。
癒しと快復
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    旅行に行く時間をスタッフや飼い主さんに与えていただき、私が得たことを、もう少し話しておきたい。

    私は動物病院をはじめてから、動物を治療するということに関しては、純粋な気持ちでやってこれた、と思う。
    そして、自分がしてることは、動物や飼い主さんを癒すことになると、心から信じてきた。

    ところが、旅行中にある本に出会い、地中海の自然を見るうち、自分がとても重大な思い違いをしていることに気がついたのだ。


    旅行前に、姫路駅のジュンクドウでぶらぶらと旅行に持っていく本を探していた。すると、1冊の本が目に留まった。
    「生命の木の下で」(多田富雄著、新潮文庫)
    多田富雄は今年亡くなっている。免疫学者で、サプレッサーT細胞を発見した世界的な科学者である。(ちなみに、サプレッサーT細胞の発見がいかに重要だったか、生命・医療に携わる人なら、だれでも知っていることである。)
    すぐれた文筆家でもあり、多くのエッセーなども残している。多田のことは知っていたが、免疫学者としての業績しか知らなかった。本を手に取ってみる。
    文庫本で軽いので、旅行に持って行くにはいいだろう、と思った。

    この本の中に「メーコック・ファームの昼と夜」という章がある。

    タイ北部に「黄金の三角地帯」と呼ばれる場所がある。
    阿片の生産地として有名で、山岳少数民族が芥子(けし)の栽培をしている。これら山岳少数民族には、麻薬中毒者が多い。
    詳しくは本書に譲るが、これらの中毒者を治療する活動をしている小さなグループの拠点が、メイコック・ファームなのである。

    日本人のボランティアの人が働いていることを聞き、多田は学会でタイを訪れたとき、メイコック・ファームに立ち寄ることにする。

    「なぜ、彼らが、そこで働いているのか」
    多田は、非常に関心を持ったという。

    現地に行くと、麻薬の被害がいかに大きいかがわかる。
    貧しい山岳少数民族は、現金収入を得るため、芥子の栽培をする。最初は裕福になるが、そのうち阿片中毒者が現れ、村人の多くが麻薬中毒者になっていく。
    大人の大部分が、朝から阿片を吸い、労働をしないため、村は再び貧しくなっていく。子どもが売りに出される、という悲惨なことも行われ、村は崩壊していく。

    これらの問題は、WHOなどがいくら現地に入っても、決して解決されることはなかったが、このメーコック・ファームではそれに成功して、成果を出しているのだ。

    ここでは、阿片中毒者を隔離し、麻薬からの離脱をはかる。
    禁断症状がでるため、患者はとても苦しむことがある。錯乱して、そこで働いているひとを殴ることもあるそうだ。
    麻薬から離脱できた人は、そこに残り、まだ離脱できていない人を支える。
    そのような快復のプロセスを踏んで、とても時間をかけて麻薬中毒者を無くし、村を再生していく。

    多田の疑問は、
    「ここで働く人が、なぜそこまでして、この仕事に携わるか」
    ということである。
    麻薬中毒者に殴られながら、どうして続けられるのか。
    困った人を助けたい、というような慈善の気持ちだけだと決してできないはずだ。

    そう考えた多田は、現地を歩き回った後、次のような一文を残している。

    「麻薬に侵された山岳民族の治療を行い、彼らが徐々に生命を回復してゆくことに参加することで、ピパットさん(ここで働いているリーダー)たち自身の生命も回復しているのだと。私も村を訪ね、ようやく傷の癒えた村人に接することで、私自身の持っていた傷の深さに気づいた。私たち先進国の人間も、実は限りなく傷つき、自力では回復できないほど病んでいたのである。彼らが癒えることは、私たちも癒えることである。」

    私はこの一文を読み、気がついた。
    私が、ずっと心の中に携えてきたもの、何か違和感のような、自分では解決できない不安定なものの正体が何であるかを。
    私は、懸命に自分を癒そうとしてきたのだった。

    ギリシャの自然をみていると、自然の中にいることが、いかに幸福であるかがわかる。現代に暮らすことは、この幸福から目を背けることで成り立っている。そして、だれもが自分の快復の糸口を探している。
    私は、自分の傷に気がつかず、動物や飼い主さんの傷を治そうとしていたのだった。そして、動物や人間の快復に立ち会うことで、自分を癒そうとしてきたのだ。

    自然から離れて暮らすこと、それ自体が私たちのどこかを狂わせている、と思う。
    そう考えると、感情が暴走したり、他者に攻撃的になったり、様々なことに傷ついている人に向ける視線は、非難ではなくて慈悲の視線であろう。


    それができる前提として、まず自分の傷の深さに気がつくべきであった。



    島々に沈む夕日

    | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:22 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
    はりねずみの由来
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      旅行の話の前に・・。
      いちごママさんが、当院のマークの「はりねずみ」の由来を尋ねておられたので、書いておこうと思う。過去にも書いた記憶があり、ハナさんも書かれていたけど、自分で探しても見つからなかった。

      姫路で動物病院をはじめる前に、イギリスの動物病院を見学しようと思い、3ヶ月間イギリスを旅行した。15年前の話である。
      このように長期に旅行することは、この機会しかないと考えた。
      イギリスを選んだのは、高校の時先生に勧められて読んだ「ドクターヘリオットの不思議な体験」という本の舞台がイギリスだったから。
      イギリスの獣医師の話である。

      この旅行が、私にとても影響を与えたのだ。
      それまで、考えていた動物病院のイメージや、動物と人間の関係を、考え直すきっかけになったのだった。
      「かぶれて」しまった、と言っていいと思う。
      そういうあこがれをもとに、動物病院をはじめようと思ったとき、シンボルになるのは何かと考えたら、自然にはりねずみが浮かんだ。

      イギリスでウッドグリーン・アニマルシェルターという動物保護施設を見学したとき、そこにははりねずみが保護されてた。
      イギリスにははりねずみが多く棲息し、都会の家の庭などにもよく出没する。アニマルシェルターで、生まれたばかりのはりねずみにミルクを与えているところを見て、ほんとうにかわいいと思った。

      はりねずみは、全身が針だらけだが、決して攻撃的な動物ではない。
      いざとなれば、くるりと体を丸め、防御一手である。
      とてもシャイで、すぐ丸まる。
      「とても平和主義な動物なのだ」と思った。
      実際、ドイツなどでも平和の象徴として、はりねずみがシンボルになることもあるという。

      動物病院をはじめ、はりねずみをシンボルにしていると、やっぱりそうしてよかったと思うこともある。
      最初気がつかなかったが、はりねずみは私が行おうと思っている動物医療のシンボルにぴったりなのだ。

      ・だれも傷つけない、平和のシンボルとして
      ・PLDDや腹腔鏡手術は、針や細い器具を使い、できるだけ動物に傷を作らない手技である。はりねずみの「針」は、その象徴になる。

      ね!ぴったりでしょう!

      シンボルは大事である。自分がつけたシンボルに導かれることもある。

      イギリスの旅行は、「旅行は自分を変えることがある」と気づいた旅でもあった。旅の話は、明日から。



      4000年前の遺跡の前で
      | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 05:58 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
      多頭飼育
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        気のせいかもしれないが、最近複数の動物を飼育しているひとが増えているように思う。

        同じ種類の犬を、もう一匹飼う。あるいは、猫と犬を一緒に飼う。
        動物を複数飼うことは、世話も大変だし、相性が合う、合わないの問題もある。けれど、動物同士の関係を見ることができておもしろいものだ。私も多頭飼育者だから、よくわかる。

        たとえば、動物はやきもちを焼く。
        うちでは、食事の時猫がテーブルの上に上がると、犬が必ず吠える。
        「自分がもらえない、いいものを、ねこが食べている」
        と思い、嫉妬するのである。(これ、にゃしさんの話と同じですね)

        あるいは、自分がキャットフードを食べているとき、そばに他の猫が来ると怒る。これなどは、「所有欲」と言えるのではないか。

        それらの動物同士の関係を見ていると、人間に存在する「嫉妬心」「所有欲」「やきもち」などは、動物(高等ほ乳類)がそもそも持っている原始的な感情であることがわかる。

        自分の好きな人を横取りされ、猛然と怒るのは、人間も動物も同じであることなど、毎日発見が多い。

        そういうことをみていると、普段人間が感じている感情は、かなり原始的なものが多いことがわかる。
        ちょっとイライラしたり、腹が立ったりするのは、いわば反射のようなもので、動物も持っている感情だ。

        人間がやっかいなのは、頭がいいので、その感情に理由を付けることだろう。
        いま腹が立ったのは、相手が自分のことを軽く見ているからだ、とか、いろいろと理由を付けたがる。
        そこからネガティブな感情が生まれ、他人を恨んだり批判するようになる。
        そう考える自分もどんどん傷つけていく。

        動物同士の関係を見ると、一瞬は原始の感情がわき出るが、あとはけろっとしている。そのほうが精神衛生上、よいであろう。

        動物をたくさん飼育していると、そういう楽しい発見が毎日ある。
        1匹しか飼っていない人、もう一匹どうですか?




        あついか


        | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:44 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
        あたらしく動物を飼うこと
        0
          スタッフの実家で、あたらしく犬を飼いはじめた、と聞き、私は少しほっとした気持ちになった。
          そのスタッフの実家では、それまで大型犬を飼っていて、少し前に病気で亡くしていた。その様子を聞いていたので、新しい家族を迎えることができたことを、喜んだ。

          遠方なので、亡くなったその子の治療には私は関わっていなかったが、鼻腔内腫瘍が脳に転移し、摘出手術を受けたことを聞いていた。
          担当した専門医の先生から直接話を聞く機会があり、かなり様子はわかっていた。
          非常に困難な手術だったが、無事成功した、とのことだった。
          けれども、その後の合併症がもとで、亡くなってしまったのである。

          このような経過をたどったとき、多くの飼い主の方は非常につらい精神状態になる。
          「この子にその治療を受けさせたことが、本当によかったのか」
          「自分はいちばんいいことをしてやれたのか」
          動物を亡くしたショックに加え、そのような気持ちが繰り返しおこり、落ち込んでしまうことが多い。
          なにより、手術を決断したり、さまざまな判断をその都度しなければならないし、弱っている動物の介護もする。心も身体もくたくたになってしまう。

          そういった過程を経て、新しい犬を飼う気持ちになれたことは、本当によかったと思う。
          「もう二度と動物は飼わない」
          そう言う方も多いからだ。

          わたしは、亡くなった子の思いではいつまでも大切にしてほしいが、今を生きている人間が、いつまでも悲しみ続けることは、飼っていた動物も願っていないと思う。動物の純粋な魂は、飼い主さんの幸福を願っているはずである。

          受け入れるには時間がかかることも多いが、私たちにとっては、飼い主さんが再び動物病院へ来たときが、本当に嬉しい瞬間だ。




          たろう



          | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:47 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
          佇まい(たたずまい)
          0
            ときどき街にでて、雑踏の中を歩くと、漠然といつも思うことがある。
            「こんなにたくさんのひとがいるけど、この中で心を通わせるような人に出会う確率はどれくらいだろう」
            と。

            先日読んだ上野千鶴子さんの「ひとりの午後に」の中に、「佇まい(たたずまい)」というエッセーがあり、私はとても共感した。
            (上野千鶴子さんといえば、ジェンダー学の草分け的な研究者で、筋金入りのフェミニストである。いわば「男の敵」なのだが、なぜか共感する考え方が多い。考えてみれば、私が読む女性作家の本は、犬養美智子さんや塩野七海さんだったりする。ひょっとして、強い女性が好きなのかもしれない・・笑)

            上野さんがある女性と対談することがあった。
            その女性は、歴史の「生き証人」のようなひとで、上野さんはその人の半生を聞き出そうと一生懸命になる。
            ところが、話は四方山話ばかりで、なかなか核心に進まない。
            肝心なことを何も聞けぬまま、対談は終わってしまったそうである。

            対談が終わったあと、上野さんははっと気がついたそうである。
            「私はこの人の過去を一生懸命聞こうと思っていたが、今現在この人が醸し出している雰囲気や佇まいが、なによりこの人を雄弁に物語っているのではないか」
            そう思い、「もっと今の彼女をありのままに堪能すればよかった」と後悔したそうである。

            私も誰かと出会ったとき、その人の過去や考え方をよく知らないと、その人と出会ったことにならない、と思っていたフシがある。
            また、その人がどんな夢を持っているかなど、将来のことに思いを馳せることもある。
            けれど、人間は過去や未来のために生きているわけではない。
            かえって、過去や未来を知ろうとすると、その人が今生きているリアリティーを受け取る機会が失なわれることになる。
            いろいろ聞かなくても、その人の「佇まい」、すなわちちょっとした仕草、話し方、言葉の響き、ありふれた物事に対する感じ方などが、その人を表しているはずである。
            それを享受すれば十分ではないか。そんなふうに感じ、上野さんの文章にとても共感したのだった。

            大人になってから、友だちを作るのは難しい。
            それは、その人のことを十分に知り得ないからだと思っていた。
            けれど、多くの情報はいらないのかもしれない。

            その人の佇まいを受け取れば、それで十分なのだろう。




            わたし「を」すきなハナ







            | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:49 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
            ともだち
            0
              学生時代に学生食堂でひとり食事をしていると、獣医学科の先輩がやってきて、
              「どうしてひとりで食べているんだ?」
              と聞いた。
              私はひとりが好きなので、先輩の言っている意味がよくわからなかった。
              たぶん、「友達いないのか?かわいそうだね」というニュアンスが入っていたように思う。

              親元を離れ、大学に入ったときは、心底「やっとひとりになれた」と喜んだ。友達がいないわけではないけれど、ひとりがいい。それは、いまでもそうである。

              最近、こんな話を聞いた。
              最近の大学では、トイレでご飯を食べる学生がいるとのこと。

              みんなと一緒にいたくないので、誰もいない場所で食事をしたいのだそうだ。私と一緒かな・・、とも思ったが、ちょっと違う。
              ひとりで食べたいなら、大学構内のベンチでもいいし、学生食堂も狭くないだろうから、どこかで食べればいい。トイレで食べるのは、「ひとりでいることが、恥ずかしい」という意識が働くからであろう。


              上野千鶴子さんのエッセー(『ひとりの午後に』NHK出版)に、こんな話があった。
              「友だちがつくれない」という相談に、精神科医の齋藤学さんがこう答えたという。
              「あなたが一人でいられる能力は立派なものです。・・『一人でいるのは悪いことだ』と思うのをやめましょう」(『家族パラドックスーアディクション・家族問題 症状に隠された真実』中央法規、2007年)

              齋藤学さんの説明はこうである。
              「みんなでわいわいやれる人っていうのは、浅いレベルで自己表現ができてしまっていますから、『表現したい』ということを考えずにすんでしまいます。・・『表現』には代償として孤独を支払わなくてはなりません。孤独を支払わない人は、楽しそうかもしれないけど、ただの人です。孤独な魂にしか作品は作れないんですよ。」

              この説明は、私の腑に落ちた。

              動物病院をしていると、年間延べ1万人以上の人と話をするし、私は人間嫌いではない。けれど、ときどき一人になりたくなる。
              仕事をする上では、スタッフに手伝ってもらわないと、立ちゆかないし、難易度の高い手術だと助手や麻酔係も必要である。
              かなわないことだとわかっているが、可能なら同じレベルの仕事を「ひとりで」したいと、心の中では思っている。

              治療や手術が「作品」かどうかわからないが、私はひとりで表現したい。

              こうやって早起きしてブログを書くことも、表現であるだろう。
              「作品」というほどのものではないけれど、自分の感じたことや考えたことを表現したいと思う。これも、ひとりの作業である。

              ひとり好きなので、現在友だちはほとんどいない。
              でも、それを恥ずかしいとか、寂しいと思ったことはなかった。


              ・・ところが、最近夢を見た。
              友だちができる夢である。おどろくことに、夢の中では私はとても幸せなきもちであった。




              あくろばちっく


              | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 07:15 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
              変化しない幸せ
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                民主党、菅政権の支持率が高い。
                政治の話は抜きにして、この現象は少し興味深かった。

                首相が交代すれば、それだけで何かよくなるわけではないのに、「変化」があると期待が高まるのは、人間の性(さが)であろう。

                人間が他の動物と圧倒的に違うのは、変化を求める、ということだと思う。

                毎日繰り返される平凡な日常を覆し、新天地を求める。
                その先には危険や苦労が絶えないかもしれないのに、新しい場所には何かいいことが待ち受けている、と考える。
                人間以外の他の動物は、そんなふうに考えないだろう。

                人間以外の動物は、与えられた環境でいかに生きるか、そう考えているように見える。


                人間にとって、もっとも過酷な罰は何か、ということをあるテレビ番組で見たことがある。
                痛みを与えるような拷問より、単調な仕事を繰り返させる、というのが、もっともつらいのだそうだ。
                バケツをふたつ用意し、ひとつに砂を入れる。その砂をもう一つの空のバケツに移し替える。それをいつまでも繰り返させると、ほとんどの人は発狂してしまうのだそうだ。「意味のない繰り返し」には耐えられないのだ。


                けれど、単調なことに耐えられない人間が、単調に思える生活の中で幸せに見えることがある。

                イタリアで、牛を飼いチーズ作りを何代も続けている地域がある。
                牛の飼い方、チーズの作り方は何百年前から一切変わっていないそうだ。
                先祖から引き継いだ方法を、「いかに変えないか」ということを大切にしている。
                その土地の人は、朝起きる時間や毎日食べる食べ物、一年を通して行われるさまざまな行事は一切変えないという。

                私は最初、
                「毎日判で押したような生活だと、退屈しないのだろうか」
                と思った。
                ところが、そのような生活をしている人々は、とても幸せそうなのである。
                先祖から引き継いだ、変わらない味のチーズを作り続けることに誇りを持っていて、自然や動物に敬意を払って生きている。

                変化を好む人間が、「変えない」ことを守り続ける。
                これは矛盾したことだろうか。

                このように自然に密着した人の生活は、みかけは単調である。
                けれど、自然は変化に富んでいる。
                その中で同じ品質のチーズを作り続けることは、決して容易でないはずだ。
                微妙に変化する湿度や気温、動物の体調などを観察する繊細な感覚がないと務まらない仕事であろう。
                身近なものに変化を感じている、という意味ではとても変化に富んだ生活をしているわけで、矛盾はない。

                変化を追い続ける現代人を後目(しりめ)に、「変化しない幸せ」を知っている人々だと思う。




                いっとうしょう




                | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                カラスの逆襲
                0
                  非常に珍しいケースと言えるかもしれない。少なくとも、私は初めて体験した。
                  ヨークシャテリアがカラスに襲われ、大けがをしたのだ。

                  Iさんから電話があったのは早朝だった。
                  「犬がカラスに襲われ、血だらけなんです!診ていただけますか?」
                  連れてきていただくと、全身が血だらけで、つつかれた傷が多数あった。

                  「どうしてこうなったんですか?」
                  と聞くと、
                  「朝はいつも庭に放して運動させるんです。少し目を離していたら、犬の鳴き声がして・・。見に行くと上空にカラスが何羽か旋回していました。」
                  とのこと。

                  連れてきたときは、血圧も低下し、呼吸も不安定だった。
                  特に胸部の傷が大きかったので、レントゲンを撮る。
                  現像されたレントゲンを見たときは、すこし寒気がした。

                  肋骨が骨折していたのだ。
                  怪力の人が鉄格子をこじ開けたような、肋骨の大きな変位が見られた。
                  ちょっとつついた、という程度ではなく、強い力でえぐられている。
                  1ー2センチ先は心臓なので、即死していたかもしれなかった。

                  すぐ、酸素室に入れ、血圧を上げるため点滴をする。最初はDIC(播種性血管内凝固)に陥るかと思われ、集中的に治療していたが、徐々に回復してきた。
                  結局3日間の酸素吸入と10日ほどの入院で退院した。


                  おそろしいことがあるものだ、と思った。

                  ただ、私はなぜカラスが襲ったか、が気になる。
                  本来はそこまで獰猛な鳥ではないからである。

                  カラスを凶暴にさせるなにか、たとえば地球の磁場の変化や環境のこと、あるいはこれから起こるかもしれない地震など・・。

                  その後、なんの天変地異も起こっていないことを見ると、偶然起こったことだったのか、とも思うが・・。

                  身近な動物がおかしいと、すこし気になる。





                  だいどころであそばないで


                  | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:27 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
                  売れ筋を追うこと
                  0
                    テトラサイクリン系の抗生物質、テラマイシンが製造中止になるとメーカーから連絡が来た。
                    経口投与薬が残っているとはいえ、注射でこの薬が使えなくなると、困る。
                    とても弱っている動物や、口から投与することが難しい場合、注射薬が必要なのだ。

                    最近、このようなケースが多く、悩まされている。
                    たとえば、アモキシシリンというごく一般的な抗生物質は、現在小型犬や猫に使う50mgという製剤が販売中止になっている。
                    クロロマイセチンも製造中止。

                    理由ははっきりしていて、売れ筋ではないから、である。
                    企業にとって、人の医療での使用頻度が少ない薬を作り続けるのは、コストがかかる。あまり売り上げが上がらない薬は、製造ラインを確保するのが無駄に思えるのだろう。動物は人間に比べ数が少ない。つまり、シェアが小さいのだ。

                    もっと深い問題として、日本の動物医療では、動物用に製造されたいわゆる「動物薬」が極端に少なく、さまざまな病気に対応するため、人体薬を使わざるを得ない現実がある。

                    たとえば、私の動物病院ではたぶん80%以上「人間の薬」を使っている。
                    おそらく「動物薬」だけで診療を続けるのは無理であろう。
                    これに対し、米国やEUではかなりの割合で動物薬を使っているはずだ。

                    以前イギリスの動物病院を見学して、薬の保管庫にずらりと並ぶ動物薬を見て驚いた。
                    小型の動物から大型犬まで、さまざまな剤形の薬剤がそろっている。
                    獣医師はその薬を瓶に入れそのまま処方するだけ。
                    (ちなみにイギリスでは、プラスチック製の薬剤瓶に薬を入れ、渡すことが多かった)

                    日本では、人体薬を粉にしたり、分割したり・・。
                    受付はいつも大忙しである。

                    もっと大きな違いは、欧米のメーカーは発生頻度が少ない病気の治療薬もそろえているということだ。
                    あまり多くないアジソン病の治療薬のDOCPが、動物薬として販売されているのを見ると、「日本は完全に負けている・・」としみじみ思う。
                    動物を大切にする文化があるかないかの違い、と言っていいかもしれない。

                    売れるものだけを作れば、効率もいいし儲かる。
                    薬だけに限らず、食品や服・本など、あらゆる分野でその傾向が強い。
                    企業も競争が激しいので、そうしないと生き残れないのかもしれない。

                    けれど、売れ筋ばかりを追っていると、やがて企業全体の価値が下がっていくことに気がついてほしい。
                    私は、あまり多くない病気の薬や猫や小型犬用の小さな薬をきちんと作っている企業には、敬意を払いたいと思う。
                    また、そのような企業が作っている製品全体の信頼性は高いと考える。

                    企業活動を通して、社会に貢献すると、たいていの会社は企業理念に書いている。
                    これを「儲けるため」と置き換えてほしくない。




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                    つきがはんぶん
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                      毎日ではないけれど、夕飯を食べたあと姫路城付近まで歩きに行くことがある。運動不足の解消のためだ。

                      先日自宅を出て、空を見上げると、きれいな半月が空に浮かんでいた。
                      雨上がりの雲の隙間から見える月は、美しかった。

                      隣にいた妻も空を見上げていた。
                      そのあと私たちは同時に、
                      「月が半分」
                      と言ったのである。

                      同じタイミングで、しかも一字一句違いない言葉を発するのは奇跡に近い。

                      半月を見て、何か言うとすれば、限りないバリエーションがあるだろう。
                      「月がきれいだね」
                      「今日は半月だよ」
                      「半月がでている」

                      この奇跡がどのくらいの確率で起こるか、計算のしようもないが、宝くじを当てることより難しいのではないかと思う。




                      いままで乾燥パスタをたべようとする猫はいなかった









                      | 特選ブログ(初めての人は是非読んで!) | 06:27 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |