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はりねずみ通信

兵庫県姫路市にあるかない動物病院。
椎間板ヘルニアの治療であるPLDDや腹腔鏡手術などの低侵襲治療に力を入れています。
海外に関心のない男子
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     日本の若い人、特に男子は、海外への関心が低くなっている、という新聞記事を見た。
    同世代の女性に比べ、海外へいく人の数が約半数なのだそうだ。
    理由を聞くと、
    「日本のほうが、居心地がいい」
    という答えが返ってくるとのこと。仲のよい友人達と、居酒屋で過ごすのがいい。情報はネットでも調べられるし、海外はテロや感染症などのリスクも高いから・・、という意見。

    私はこの記事を読んで、「若者は情けない」とは思わなかった。
    男性が居心地のよさに安住する傾向は、ずっと以前からあった。いわば、予想される結果である。
    戦後の高度成長期以降、男性は社会に出てお金を稼げばそれでいい、という風潮ができた。
    その時失ったのは、生活感のようなもの、である。
    食事を作ったり、掃除をしたり。家事全般を女性に任せ、ひたすら働いたのだ。
    それが、今の日本を築いた、といっていいので、悪いと言うわけではない。ただ、男性の衣食住に関する関心が薄れた、というのは事実であろう。

    「男子」は、同じ流れを汲み、社会に出て出世することが目標になる。勉強して、いい会社に入り、よいポストに就けばいい。そう教えられてきたので、勉強さえできれば、あとは免除してもらえた。
    仕事していれば、勉強していれば・・。あとは安穏としていればいい。
    居心地のよさに身を任せ、身の回りのことに関心を抱かなくなる。そういった傾向は、いまにはじまったものではない。

    食べ物や生活全般への関心が低いと、海外への関心も低くなるだろう。
    なぜなら、
    「異国の人はいったい何を食べているのだろう」
    「どんな生活習慣があるのか」
    という興味が、海外へ行くきっかけになるからである。



    ・・これは男性への批判として書いているものではなく、私自身への戒めと読んでもらいたい。
    生活感を失わないようにしよう、と思っているのだ。


    とりあえずなかよく
    | エッセイ | 06:16 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
    子供の感性
    0
       神童といわれる子供がいて、子供の頃から音楽の才能を発揮したりする。
      そのとき奏でられる音楽は、テクニック的にはうまくても、「中身は子供」なのだろうか。
      そんなことはなく、大人の感性で表現できる子供が存在する。
      どうも、大人は、子供のことをみくびっているようだ。

      小学校1年のとき、同級生の女の子から告白された。
      その時の気持ちを覚えているが、どきどきするような、うれしい気持ちだった。
      ところが、その子は他の子にも「すき」と言っていたようで、私を含め3人の男の子に告白していたことが、あとでわかった。
      スポーツが得意な子、かっこいい子、頭のよさそうな子を選んで、愛を告げていたという顛末である。(ちなみに、わたしは頭のよさそうな子、という基準だったようだ)
      それがわかったあとは、なんとなく残念な気持ちになったことを覚えている。
      つまり、小さな子供にも、愛がわかるのである。

      子供は愛などわからないし、大人の難しい世界は理解できないだろう。私たちは、そう考える。
      しかし、それは彼らが「表現できないだけ」だからではないか。
      持っている言葉の数が少ない、伝え方がわからない、はずかしくて表に出せない・・。それだけの違いではないだろうか。

      むしろ大人のほうが、好きな気持ちを封印したり、思ってもいないことを口にして自分でもそう思い込んだり、世間体を気にして取り繕ったりする。子供の目から見ると、わかりにくい存在だろう。
      おたがい理解しにくいもの同士、なのかもしれない。

      自分も子ども時代があったわけだし、そのとき感じていた気持ちを思い出すことが、両者の意思の疎通に役立つだろう。


      ・・でも、3人の男の子を好きになったあの女の子。今は、どんな大人になっているのだろう。ちょっと気になる。



      まんぞく





      | エッセイ | 06:33 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
      厳しく教えられたこと
      0
         ヒヒ(霊長類、猿)の社会は、ヒト社会と相当似ているそうである。
        とりあえずの食物は棲んでいる山の中にあるし、外敵も少ない。だから、多くの時間を集団の中のコミュニケーションに使う。ボスを中心としたヒヒ社会は、まさに「人間関係」が渦巻いているのである。

        若いヒヒは、集団の中では力が弱い。より上位のヒヒに社会性を教えられる。時には力でねじ伏せられたり、攻撃されたりもする。それは、彼らにとってストレスになっているが、「力を蓄える」時期でもある。

        私は大学を卒業した後、勤務医として働き始めた。私がはじめての勤務医だったこともあったかもしれない。院長は相当厳しく、私を教育した。
        その頃、私は自分が本当に小動物の臨床に向いているか、確信がなかった。牛や豚を扱う大動物臨床に進むべきか、はたまた発展途上国へ出向いて、現地の人のために働くのか、などと漠然とした考えで働いていたように思う。

        そういう中途半端な考えで仕事をしていたので、何事もうまくいかなかった。
        3年間の勤務医の間、叱られっぱなし、と言ってもいい。いま考えても相当ストレスの多い時期だった。思えば、院長もきっと大変だっただろう。
        3年目に入った頃、ようやく腹が据わって、小動物臨床に進むことに決めた。迷いがなくなってからは、「ずいぶんかわったね」と言われるほど、自分自身にも変化が起きた。

        では、あのモラトリアムな、叱られ続けた日々は無駄であったのか。
        今考えると、ヒヒ社会での若ザルと同様、力を蓄える時期だったと思う。
        あそこで耐えていなかったら、いまはなかった。今でははっきりそう言える。そういう期間は必要だったのである。

        院長は時に理不尽な叱り方をした。
        「腹立ちまぎれに叱ってるんじゃないか」
        と思うほど。考えてみれば、何考えてるかわからない若造と一緒に仕事をしているので、腹が立っても当然かも。
        ひとつだけ一貫していたのは、動物に対してはいつも真剣だった、ということ。
        その真剣さは、いまも引き継いでいると思う。


        若い時期のストレスはつきもの、というと、今の若い人はついてこないだろうか。
        でも、厳しい時期が、後の飛躍につながることもある。
        がんばって。


        うすめ

        | エッセイ | 06:45 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
        見方がかわる
        0
           趣味は音楽、と言えるかもしれない。いまはもっぱら「聴くこと」専門である。
          近頃、ピアノの演奏をよく聴くようになり、新しい発見が多い。ここ最近の一番の収穫は、シューマンという作曲家に、あたらしく出会ったことである。

          学生時代から、シューマンをよく聴いていた。主には交響曲である。交響曲は1番から4番までがあって、どれもとても美しい。ただ、ベートーベンやブラームスと違って「重みが少ない」という印象だった。軽快で美しいだけで、訴えてくるものが少ない。そんなふうに思っていた。

          ところが、彼の作ったピアノ曲を聴いていると、どうも様子がちがう。イメージよりももっと複雑で、とらえどころがない感じ。けれど、繰り返し聞いていると、心の奥底に響いてくる。表面的な美しさの裏に、なにか深い部分があるようなのだ。

          シューマンに関する映画を見たり、関連する資料を読むと、彼が天才的な能力を持ちながらも、実は生きていくのに不器用な人であったことがわかる。最後は精神を病んで、自殺を図るが失敗し、入院治療中に亡くなってしまう。

          現在演奏される彼の交響曲は、ベートーベンやブラームスの音楽と同じとらえ方で演奏されているように思う。そのため、病的な側面や、内省的な表現は薄められ、美しさが強調される。
          ところが、ピアニストらは個人としてシューマンを捉え、表現しようとする。
          ピアノ曲を聴くことで、私のシューマンの印象が大きく変わってしまったのは、偶然ではなかったかもしれない。

          ピアニストは、シューマンのピアノ曲を特別なものと思うようだ。彼の曲のことを、
          「うまく説明できないが、どこか惹かれる」「心にダイレクトに迫るところがある」
          と語っているインタビューなどを目にすることが多い。

          ベートーベンは、いつまでたってもベートーベンだし、バッハはバッハである。
          私は、こんな風に作曲者の印象がすっかり塗り変わることなど、ないと思っていた。
          つまりは、レッテルを貼っていたのかもしれない。
          シューマンの「再発見」は、私にとって大きな出来事だった。


          身近な人間に対しても、そうではないか。
          ある人のことを「こんな人だ」と決めつけているが、本質はそんな簡単に見つかるものではない。古くからの友人、長年一緒に暮らしている家族でも、本当の姿は少しずつしかわからないものだ。


          それを発見する喜びが、これからまだまだあると思うと、長生きせねば、と思う。


          ころころ
          | エッセイ | 05:58 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
          夢について
          0
             落ち込んだり、くよくよしたり。いつも元気でいられないのが人間である。
            ところが元気を出す方法がひとつある。それは、未来を思い描くことである。
            脳の研究では、人間が一番幸福を感じるのは、明るい将来を展望するときなのだそうだ。

            100歳を超えても現役で医師をしている日野原先生は、10年先までの予定表を持ち歩いているとのこと。先の可能性に思いを馳せるのは、長寿の秘訣かもしれない。


            私には目標があって、それを考えている時はやはり楽しい。
            具体的には、
            ・腹腔鏡の技術を向上し、動物医療で現在不可能だと考えられている外科手術を、腹腔鏡で低侵襲に行えるような基礎を作りたい。
            (いま行おうと思っているのは、腹腔鏡下胆嚢摘出の動物医療での標準化である。つまり、教科書をつくること)
            ・2017年に日本で行われるVES(Veterinary Endoscopy Society、低侵襲外科の世界的な集まり)でPLDD(経皮的レーザー椎間板除圧術)と乳び胸(または胆嚢摘出)の発表をすること
            ・若い獣医師向けに、腹腔鏡を楽しく学べる「腹腔鏡道場」のようなものを作ること。そのための模擬練習模型づくりや、施設の整備
            ・はりねずみ通信を土台に、本を書くこと
            などなど。

            「自分にはできないかもしれない」という視点が、すっぽり抜け落ちていることと、目の前にやるべきことがあるのを放っている、という問題はあるが、それでいいのだ。



            きになる

            | エッセイ | 06:31 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
            言い訳
            0
               朝三暮四という言葉がある。
              目先の違いに捕らわれ、結果が同じであることに気がつかないことをいう。
              中国の故事だが、由来はこうである。

              ある猿好きの老人がいた。
              猿が増えて家計が苦しくなり、餌を減らそうとした。
              「どんぐりを朝3つ、暮れに4つ与える」
              と猿に言ったところ、猿が怒ったので、
              「朝4つ、暮れに3つやる」
              と言ったところ、猿は喜んで承知した、とのこと。
              同じなのに、目先だけでだまされることを意味する。

              この故事を見ると、猿がいかにも愚かであるように見えるが、ほんとうはそうではない。
              こんな心理学の実験がある。
              ハーバード大学の学生と、チンパンジーを比較した研究。
              目の前においしそうなお菓子を置き、どれだけ我慢できるか比べた。
              「これを我慢したら、あとで倍与える」
              というルールを示しておく。
              チンパンジーは、たくさんもらいたいので、じっと我慢することが多い。
              ところが、ハーバードの学生は、かなりの確率で我慢できないのだそうだ。

              理由は、人間はいろいろ「言い訳」を作り出す、ということである。
              「これは単なる実験だからな」
              「いま、食べてあとでもらえなくても、また明日買いに行けばいいし」
              「空腹はストレスになるって、だれか言ってたな」

              努力や勉強の苦しさを逃れるため、私たちはしばしば言い逃れをする。
              「忙しいから」「そのうちやるから」「もっと大事なことがあるから」、・・・

              私も最近、知らない間にこういう言い訳を考えて、現実から逃れようとしていたことにふと気がついた。
              だって脳が勝手に言い訳を考えるから。

              それが言い訳だって!


              こっちみる
              | エッセイ | 08:23 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
              未来を描く
              0
                最近注目しているのは、ベネズエラの音楽教育のこと。

                ベネズエラは、決して豊かな国ではなく、子供は学校に行かずに働かなければならないこともある。都市部の治安も悪く、若者が希望を持って暮らすことができなかった。そのため、貧しさから抜け出せない、という悪循環が続いていた。

                ところが、ある人の発案で、子どもたちにクラシック音楽の教育を無料で行うことになる。
                この教育システムの考え方などが、またすごいのだが、それはまたの機会に書くとして、結果としてその中から一流の音楽家たちが育っていったのである。

                その頂点が、いま最も注目を集める若手指揮者のグスターボ・ドウダメルである。
                そのドキュメンタリー番組を見たが、子どもたちにとって「希望」というものがいかに大切かわかる。そこから巣立っていった先輩を見て、子どもたちはあこがれる。もっと楽器がうまくなりたい、世界に羽ばたきたい。そういった希望があるとき、人間はかくも能力を伸ばすことができるものかと、心底驚いた。若者たちでつくるシモン・ボリバル・ユースオーケストラのレベルは、極めて高い。ほんとうにびっくりした。


                希望について考える。
                私は動物医療をしていて思うのは、飼い主さんに「もうなにも手立てがないですよ」と言うことほど、失望させる言葉はない、ということである。希望を失ったとき、人間の体には何が起こるのだろう。落胆した人の表情をみるのは、本当に辛い。

                どんな状況でも、希望が与えられる存在でありたいと、いつも思う。
                と同時に、気休めでなく、本当にそれを実現するのはいかに難しいか。そういう気持ちは、日々大きくなるばかりだ。
                でも、ベネズエラの音楽指導者たちが成し遂げたように、希望の種を蒔くことはきっとできるだろう。

                自分自身にも、そういう未来を描くことで、少しずつ進むことができるような気がする。私にも希望が必要なのである。


                せまくない?





                | エッセイ | 06:16 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
                引き出しの怪
                0
                   洗面所のバスタオルなどを入れる一番下の引き出しが開いている。
                  たいていは猫が開けるので、むやみに閉めてはならない。勢いよく閉めると、中に入っている猫が悲鳴を上げるからである。

                  でも、いつも猫が入っているわけではなく、少し前に遊んだあと出て行って、もぬけの殻の時もある。引き出しの奥は暗くてよく見えないので、いるのかいないのか。
                  結局は、そーっと閉める、という行為に落ちつく。

                  先日も、引き出しが半開きだったので、そーっと閉めた。
                  悲鳴は聞こえなかったので、だれも入っていないようだった。
                  ところが、1分も経たないうちにまた見てみると、引き出しが開いている。
                  少し離れたところに、一番若いトラが、所在なげに座っていた。

                  ということは、そのとき引き出しの中に猫がいた、ということである。
                  閉めるときに猫が入っていたら、悲鳴はあげなくても引き出しが少し重かったり、がさがさ音がするのでたいていは気がつく。どうして気がつかなかったのだろう。

                  よく考えてみると、引き出しの一番奥は、「引き出しが入ってこないスペース」がある。その狭い領域にじっと座っていたようなのだ。引き出しが閉まる瞬間、細くなって縦長になっていた模様。
                  「閉められたのならアピールすればよいのに」
                  と考えたが、さらに疑問が生じた。

                  中に入っていながら、どうやって引き出しを開けるのか?
                  冬の怪談、である。

                  猫と組んで手品師になる、というのはどうだろう。



                  とら
                  | エッセイ | 06:08 | comments(9) | trackbacks(0) | - | - |
                  映画を見て
                  0
                     ある映画を見る。
                    「事実に基づく映画である」と冒頭にクレジットされた。

                    2時間ほどの映画の中で、若い登場人物をめぐる様々な人間関係が描かれ、映画は終わる。一番最後のテロップに、その登場人物たちのその後が流れる。

                    ○○はその後、他国に渡り、あらたな伴侶を見つけて家族に看取られながら幸せな生涯を閉じた。
                    △△は、数年後癌を発症し、死去。○○とは、最後まで会うことはなかった。
                    ☆☆は、音楽の才能を開花させ、現在も仲間たちと一緒に音楽活動を続けている・・。

                    そのような事実を見ると、人間とはある瞬間に出会い、幾人ものひとと関わり合いながら過ごすが、やがて離れていき、住む場所が変わったり、死別したり、別の道を歩むことで、それぞれの人生を歩む生き物なのだと気がつく。

                    私は今、毎日出会う人たちと、当たり前のように過ごしているが、それは実は映画の2時間のように、限られた時間軸の中でのことに過ぎない。
                    人間がいくら将来を展望する能力があるとしても、実際にリアリティーを持って触れられる時間は、両手を伸ばした範囲ぐらいであろう。

                    ともすれば、今ある人間同士の関係や、動物との関係が永遠に続くと錯覚してしまう。
                    でも、長い目で見れば、そのような絆は、案外と脆(もろ)いものなのかもしれない。


                    今を輝いて生きたいと思うが、今に固執しない生き方はできるのだろうか。
                    ふと、そんなことを思った。





                    ふゆのひかり


                    | エッセイ | 06:44 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                    柿食う猫
                    0
                       熟した柿があったので切ってテーブルに載せていると、猫のミーがやたらと気にし始めた。
                      「こんなもの食べないだろう」
                      と思って、やわらかい部分を指先ほど与えてみる。すると、食べたのだった。
                      いままでは果物などを食べたことがない。高齢になって、嗜好が変わってきたのだろうか。

                      私自身も、歳をとってから好きになったものがいくつかある。柿もそのひとつ。
                      イチジクも好きになった。子供の頃は、木に実っているのを見ても、見向きもしなかったのだ(つまり、おいしい果物は盗み食いしていた)。

                      先ほどのミーだが、先日は生ハムを食べていた。これも以前は食べなかったはずなので、
                      「熟した柿と生ハムを組み合わせると、究極のグルメだなあ」
                      と思ったのである。

                      新しい食べ物にチャレンジする姿勢は、見習いたい。



                      これはアカハラではないかと思う。
                      動物病院の中庭に来ていた。写真だとわかりにくいが、はっとするような美しさである。

                      | エッセイ | 06:45 | comments(9) | trackbacks(0) | - | - |